映画「そして父になる」

是枝裕和(1962/6/6 時刻不明 東京都生まれ)監督は、私が好きな日本の映画監督の1人です。欧米の観客や評論家は、是枝監督こそが日本の映画界を再構築し直したと言っています。彼の映画は、日本映画界の巨匠である小津安二郎溝口健二の芸術に明らかにルーツがありますが、それらの世界観にさらに新しい視野を与えるものとなっています。是枝監督の作品は、今の時代の観客が関心を寄せるような主題を、そしてそこに介在する矛盾や相対するものを描いています。日本だけでなく近代社会における、家族というものの伝統と現代の生き方の対比や、いのちに対する基本的な価値観と権力や地位の対比などです。



私が今回、香港に到着した時、ちょうど「そして父になる」を映画館で観るチャンスに恵まれました。この秋のメキシコシティの映画祭でこの映画が上映されたということで、香港で観られたのはタイムリーでした。それで観た後すぐに、いつも原稿を書いているメキシコの週刊誌用に、この映画について書きました。日本の友人たちにも今私が感じていること思っていることをシェアしたいので、今月のコラムはこの映画について書くことにします。

この物語は、二組の夫婦がそれぞれそれまで育てて来た子どもが、実は病院で取り違えられた他人の子だったと分かる、というところから始まりますが、これは、今年のワークショップで扱ったテーマの一つと関係しています。ドナルド・ウィニコット博士による幼児期におけるアイデンティティとクリエイティビティを確立するまでの過程についてです。

「そして父になる」は、本年度のカンヌ国際映画祭にて審査員賞を受賞しました。そして審査員長であったスティーブン・スピルバーグ監督によるこの映画のハリウッドリメークが決まり、現在製作準備中です。ハリウッド資本でこの映画がリメークされることは、是枝監督にとっていい話だとは思いますが、私にとって気がかりなのは、スピルバーグが筋書きを複雑化して、二つの家族の心理を感傷的に描いたり、ハッピーエンドにしてしまうのではないか、ということです。つまり、アメリカやメキシコのような国では、ハリウッドの映画産業はたいへんに影響力が強いので、日本のこのオリジナル作品が世界中の観客には知られないままになってしまわないか、私は心配なのです。

是枝監督は、話の展開の仕方や意表を突くような出来事などについてはあまり問題にしていなくて、彼のやろうとしているのは、むしろ登場人物たちの感情の移り変わりや、人生の意味について徐々に気づきを得ていくその過程を追うというところにあるのでしょう。これらを是枝監督は、非日常的な出来事を通じてではなく、日常的だけれども意味深い出来事を通じて、描き出しています。他の例をあげれば「ワンダフルライフ」(1998)では、主人公たちは、永遠にそれと共に過ごしたいと思える大切な想い出を、たったひとつだけ選ばねばならなりません。その思い出というのは、最も感動的なものではなく最も意味深いもので、それはたとえば、最愛の人と共にただ椅子に腰掛けているというような平凡なものだったりします。

命というのはそれ自体が持つエネルギーによって保たれるわけですが、それにはその可能性を導き出すようなしっかりしたサポートが必要です。子どもを木に例えれば、木は生き延びるために精一杯頑張るのですが、よからぬ事態が起こるというのは、土台が欠落しているような場合です。「誰も知らない」(2004)に出て来るような置き去りにされた子どもたち、がそうですね。

「そして父になる」の中で、いずれの家族も、しっかりした父親と愛のある優しい母親の元で、そのような父親像、母親像を抱きつつ、子どもは育つわけですが、野々宮家の問題は、父親である良多(福山雅治・1969/2/6 長崎生まれ)が、真に感情を通じて息子と関わることができない、ということでした。この子は、野々宮慶多は父親を喜ばせようとだけして育ちます。この6歳の男の子は、父親の期待に添うように生きねばならないと本能的に分かっていたのです。このような状況は子どもに多大な不安を引き起こします。慶多は、自分のアイデンティティの感覚を偽りの自己の上に築くような危うい状態にいたわけですが、幸いにも彼の本当の父親に会うことになるのです。

双子座の是枝監督は、二つの家族、二人の父親、二人の息子、そして交錯する状況(新生児の取り違え)など、相対する二つのことをテーマとし、ドラマティックな効果を生むために、野々宮良多を成功した建築家として、斎木雄大(リリー・フランキー・1963/11/4 北九州市生まれ)を電気店をのんびり営む人として対比的に描きました。野々宮は、洗練されていて競争心があり、仕事と成功に強迫観念を持っています。斎木は業績には興味がない感じで、その代わりどう生きるかを大切にしていて、父親が息子に教えることのできる最も重要なことは、本当の人生にどうやって向き合うかということだと分かっていました。そしてさらに、本当の自分を生きるために子どもが必要なことは、「遊ぶこと」だと分かっていたのです。これはまさしくドナルド・ウィニコットが、人が健全に成長発展していくのに薦めていたことでした。

この映画が投げかける重要な問いかけは、すぐに解答の得られることではありませんが、それは、人の成長発展にとって教育よりも血のつながりの方が重要であるか否か、ということです。良多は、慶多が本当の息子でないと知った時、全てを理解しました。息子の慶多が野心もなく競争心もないわけは、彼の本当の子どもではなかったからだと合点がいったのです。実際は、良多はその子と真に向かい合えない自分自身を正当化する理由をただ探していただけでした。是枝監督は、幼い慶多が自分に会いに来たこれまで育ててくれた父、良多と話すのを拒んで逃げ出すシーンを美しいカメラワークで甘く切なく描いていますが、このシーンで良多はついに改心するのです。ところでこのカメラワークについてですが、人の動きを対角線にとらえて撮影するというこの技法は、溝口健二監督の手法から来ていると思われます。

是枝監督のアセンダントが何座かは分かりませんが、チャートの中に、蟹座の月と金星、そして双子座の太陽と水星という強い作用が働いているのをみることができます。彼の論理的思考と感情的な繊細さの間の緊張関係を意味しています。蠍座の海王星と水瓶座の土星がスクエアを結んでいることで、この緊張はさらに強調されています。魚座の木星が、彼の性格を慈悲深く思慮深くさせ、これら全ての緊張関係をしのぐものとなっています。是枝監督の水星が逆行が、現実を知って理解するのに、様々な視点を持つのに大いに役立っているのが、とても興味深いですね。幼い慶多が知らない間に自分のことをカメラで撮っていたその写真の数々を意図せず見ることになった時、良多の中に、慶多に対する愛おしさと慈しみの気持ちが溢れ出るのです。良多は、デジカメに残されたそれらの写真から慶多の自分に対する目線を通じその想いを知り、そうして自分の本当の気持ちに気づくことになりましたが、その時初めて、子どものことを理解し子どもと通ずることができたのです。この感情こそが、慈悲、思いやりと呼ばれるもので、他者の目線を通じて人を理解しするこということなのです。
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Koreeda Hirokazu
Jun/6,1962
time unknown
in Tokyo

シンガーソングライター福山雅治が水瓶座だということは、俳優でもある福山が是枝監督のシャドウだということを意味しています。一方、作家リリー・フランキーは蠍座で、彼の蠍座の海王星が彼の土星とスクエアであることから、また別の是枝監督のシャドウということができましょう。二人の登場人物と俳優たちは、是枝監督自身の「偽りの自己」と「本当の自己」を象徴しているのです。(終)
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Masaharu Fukuyama
February/6, 1969
in Nagasaki


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Lily Franky
Nov/4, 1963
in Kitakyushu


是枝裕和監督の公式サイト
原文(英語)はコチラ
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by xavier_astro | 2013-12-02 00:00 | 映画  

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