ロミオとジュリエット

ロミオとジュリエットは、疑うまでもなく、シェイクスピアの作品の中で最も有名で人気の高い作品と言えるでしょう。この本を一度も読んだことがない、あるいは舞台を見たことがないという人でも、名前は知っているでしょう。この物語のテーマは悲運の愛の完璧な典型とされてきました。世間の偏見と不寛容の犠牲者である年若い恋人たちのテーマは、作品の程度はいろいろですが、文学や映画の中で繰り返し扱われてきました。

『数ある悲恋の中でもロミオとジュリエットの物語ほど痛ましいものはない。』



私が最初にこの作品と出会ったのは、フランコ・ゼフィレッリの映画(ロミオとジュリエット、1968)でした。私は当時12歳でしたが、興奮と衝撃を覚えたのを今でもリアルに思い出すことができます。悲劇を観たのは初めてのことだったので、ショックでしばし言葉を失いました。読む前から筋書きは知っていました。メアリ・ラム、チャールズ・ラム兄弟の有名な著書で、ヴィクトリア朝の無学な若者に対して書かれたとされる「シェイクスピア物語」を既に読んでいたからです。これは今でも、英語を学ぼうとする人たちには強く薦めたい一冊で、それは文体が分かりやすく優れていると思うからなのですが、ラム兄弟はシェイクスピアの戯曲をおとぎ話にしてしまった点はどうかな、とは思います。

ゼフィレッリの映画の殆どは、薄っぺらで、虚飾的なところがあるのですが、「ロミオとジュリエット」は、彼の唯一の傑作だと私は思います。このイタリアの映画監督は、主人公の純潔さを観客に印象づけるために、若くて初々しい俳優たちを起用せねばならないことが分かっていました。そうすることで、この戯曲の生と死の混じり合った空気感が、人々に受け入れられたのです。例えば、ロミオがジュリエットの従兄弟を殺す暴力シーンは、次から次へ留まることなく続く、目の眩むような暴走するアクションの連続を見事に表現していました。ある意味、ゼフィレッリは今のティーンエイジャーにとってのスター的存在を生むのに一役かったと言えるかもしれません。というのは、最近の映画「トワイライト・サーガ」シリーズは、ロミオとジュリエットのスピンアウトものだと言えそうですから。

それから数年経って、文学の授業で先生が私に聞きました。「ロミオとジュリエットが何故、悲劇なのかを説明しなさい。」私は言葉に詰まりました。悲劇のヒーローがどういうものかについて、それまで自分が知っていた定義と、この戯曲の主人公ロミオとジュリエットの場合は、かけ離れていたからです。ハムレットオイディプスオセローのような人物像は、元来、何か欠点や弱点を持っていて、それがゆえ、運命の歯車が巡るそのタイミングで、自分自身を破滅に追いやるという筋書きが常です。明らかに、ロミオとジュリエットの場合は、まだ若く純粋で良い性質過ぎるがゆえに、自分たちを自ら貶めることなどできるわけがなく、とすれば、運命が彼らを死に至らしめたのです。それから先生は、ロミオとジュリエットの物語は、キャピュレット家とモンタギュー家がそれぞれの高慢さと敵対する相手への憎悪によって罰を受けるという、対社会、対人関係における悲劇であり、だ両家の子供たちの死をもってその罪は贖われることとなったのだと、解説しました。物語の最後にヴェローナ太守はこう言います。「罰せられるべきは私たちなのだ。」

それ以来ずっと長いこと、私はこの解釈に満足していましたし、シェイクスピアの全ての作品の中でも最も優れた一つとして、その筋書きや詩の美しさを楽しんできたのです。なのですが、今はもう、ロミオとジュリエットを悲劇と見なすことに同意できなくなってしまいました。こうした人間関係における悲劇は、ひとつのジャンルとして、道徳的教訓を伝えようとしているのかもしれませんが、シェイクスピアは決して道徳主義者ではありませんでした。シェイクスピアの人間観はあまりに深く幅広過ぎるがゆえ、一つの倫理的枠組などに収めることなどでき得ないのです。シェイクスピアの作品には明らかな何か特別なものが常にあって、その何かとは、彼が天才であるということなのだと私は思っています。

疑いなく、ロミオとジュリエットは純粋で汚れのない若者たちです。けれども彼らとて人間です。彼らはそれぞれに気性も、性格も全く異なっており、作品中にそれははっきりと書き分けられています。ロミオは情熱的で夢見がちで、憂鬱な気分に陥りがちです。一方、ジュリエットは、まだ子供であるにも関わらず、勇敢で、前向きで、向こう見ずな性格です。ロミオは典型的な蟹座、ジュリエットは牡羊座だと言えましょう。ゼフィレッリの映画の主な俳優たちのチャートを見た時、私は本当に驚きました。というのも、ロメオ役のレナード・ホワイティングは蟹座、ジュリエット役のオリヴィア・ハッセーは牡羊座と、劇中の登場人物の星座と見事に合致していたからです。

こうして、感情が抑えきれない蟹座の16歳の少年と、過度に衝動的な牡羊座の14歳の少女の二人の組み合わせが、危険なまでの爆発を生むだろうことは想像に容易いですね。ロミオとジュリエットの間で起きた化学反応は突発的です。牡羊座も蟹座も活動宮なので、ホルモン(衝動)が瞬時に活性化するのです。しかしながら、二人は未熟であるがゆえに、彼ら自身それぞれの選択をしていきます。彼らは自分が属する社会のルールを知っていましたが、愛の力はそれを凌ぐものだと信じていました。この点において彼らは正しかったと言えるかもしれませんが、彼らが予見できなかったことは、どんな境界をも越えてしまった時、愛は危険なものになり得る、ということでした。 死は常に愛を追いかけ続けるのです。これは死と愛の持つ本質ですから、社会のせいにすることはできません。もちろん、社会の倫理観は時に物事を誤った方向へ導くこともあります。ですが、原則的に、結婚と出産については、過剰なエロス(愛)による破壊的な結末から私たちを守るためのものでもあるということなのです。

何故なのでしょうか?それは、私たちが誰かを愛し過ぎてしまった時、その愛の対象と完全にひとつになりたいと願ってしまうからなのです。このようにして融合することは個人の消滅を暗に意味することとなり、つまり、無意識は死んで消え去るのを望んでしまうということなのです。この冥王星的傾向がロミオとジュリエットの精神の背後にあればこそ、彼らの無意識の欲望は聞き入れられ、愛の寝床は墓となり得てしまったというわけです。

ロミオが孕む問題は、若過ぎたがゆえに、世間からの挑戦に向き合えなかったということです。未熟で経験不足がゆえに自分自身の生と死への衝動を理解し、制御することができなかったのです。彼には常に死が身近にありました。愛する二人が相見え夜を共にした場面を思い出してみてください。男として、ロミオはジュリエットを支え、受け容れ包み込むことができなかったのです。

ここに見受けられるアーキタイプは、死に直面せざるを得ない男と、死神(死)から最愛の人を守らねばならない男です。ギリシャ神話のピュラモスとティスベは、家族から一緒にいることを許されなかった恋人たちの話で、行き違いがあって、彼らはそれぞれに自らの命を絶ってしまうのです。ロミオもピュラモスも同様に、愛する人より先に自殺をしてしまいます。彼らは視野と成熟さに欠けていたわけです。恋人が愛する人を守れなかった時、別の世界に幸せを求めるという日本の「心中」というのは、これにあたるでしょうか?

オルフェウスエウリュディケーの神話はさらに深く描かれています。二人の結婚式の日、エウリュディケーは毒蛇に噛まれて死んでしまいます。オルフェウスは愛する人の魂を懇願するために、冥府の神ハーデース(プルート)とその妻ペルセポネーの元へ行き、神々のために歌を歌い音楽を奏でるのですが、神々は、エウリュディケーに生きて返ってほしいというオルフェウスの願いを聞き入れます。冥府を離れるまでは、決して後ろを振り返ってはならないと警告したにもかかわらず、オルフェウスはうっかり振り返ってエウリュディケーを見てしまったため、エウリュディケーを永遠に失うことになってしまうのでした。

恋愛関係において懸念されることは、愛し過ぎるがゆえに、死に向かおうとする傾向から愛する人を守るために、いつも気遣い続けねばならないということなのです。オルフェウスのアニマをエウリュディケーと解釈することもできますが、この視点で観ていくと、ジュリエットはロメオの魂だということができましょう。男は自身の魂を常に光の方向へ導かねばなりません。どうやらロミオは、死して消え去ることにあまりにも魅了され過ぎていたようです。(終)

原文(英語)はコチラ

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by xavier_astro | 2014-05-02 00:00 | 文学 | Comments(0)  

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