宮崎駿監督の詩

宮崎駿氏について書かれた巷の文章の中に「天才」とか「巨匠」という言葉がよく見受けられます。日本でも同じかどうかは私は分からないのですが、昨今のヨーロッパやアメリカでは、映画監督について語る時、例えばイングマール・ベルイマン黒澤明のような故人でもなければ、「天才」という表現をすることはめったにないのです。このことは、2003年にアカデミー賞長編アニメ賞を受賞、2006年、2014年と2度もノミネートされたこの類い稀な日本人の映画監督を、西洋の評論家たちが、評価しているということではないでしょうか。



「風立ちぬ」がこの度の受賞を逃したと聞いた時はたいへんガッカリしましたが、これははっきりとさせにくい倫理的な問題を含んでいたためと思われます。ハリウッド業界は倫理的に白黒はっきりした内容を好みます。それが子供のためのアニメである場合には特にそうです。宮崎駿監督の映画は必ずしも子供のために作られたものではないと思われるので、この点は誤解されているところかもしれませんが、最新作の主人公は、ウォルトディズニーの精神性からすると、曖昧な倫理観であったということなのでしょう。

疑う余地なく、宮崎駿監督は天才として生まれついたのだと思いますが、修練と勤勉の結果として、アニメーション業界における巨匠となり得たのだと思います。とりわけ、彼は映画史の中でも最も優れた詩人の1人であると言えるでしょう。彼がいったいどんな詩人であったのか、彼の詩がいったいどのようなことを伝えようとしているのかについて、ここで書いてみたいと思います。

宮崎監督の創造性は四大元素によるものだとはっきり言うことができましょう。彼の全ての作品の中に、この要素があるのが分かります。土、水、風、火の要素を活用することで、宮崎監督は具体的な表現方法の中に留まることができました。つまり、彼の中にあるイメージがどれほどマジカルでファンタジックであろうとも、彼の探求しようとしたものをリアルに体感させてくれるのです。彼の作品で、ねつ造されたり、根拠がないと思わせるようなイメージは、ひとつとして思い出すことができません。具現的な四つの要素を扱うことによって、分かりやすい形で物理法則を用いたのです。

アーティストとして、宮崎監督は物理学を熟知していました。四大元素を理解することは、彼のキャラクターやその演技に生命を吹き込むことに役立ちました。マンガ作家宮崎監督は、人間を動物や某かの物に変化させるとか、あるいは反対に物が動物を人間に変容させるという方法を見出しました。例えば、「紅の豚」では、人間豚を、自然界も飛行艇の操縦も人々をも従わせるような、魅力的で信用できるヒーローとして描いています。「もののけ姫」では人間も動物も自然もみな複雑な宇宙のもと、作用し合って生きています。最たる例として「風立ちぬ」では関東大震災にまつわる出来事が描かれますが、風も火も自然界のものではあるけれど、恐ろしい現象として描かれています。

宮崎監督のこの暗喩を使うという、彼の詩人としての才能を引き出しているのは風の要素です。以前のコラムで既に触れたように、宮崎監督の出生図には風の要素がありません。ユング心理学的に言えば、風(論理性、公平性、思考)というのは最も無意識で精神的な働きをなすものであり、危機的な状況下では、隠された、背後にあるような機能が活性化するのです。宮崎監督の場合は、彼自身の詩を作ろうとする時がそうでした。彼の仕事においては風の要素があまりに重要なので、時に彼の映画のタイトルはこの言葉がそのまま使われています。「風の谷のナウシカ」「風立ちぬ」がそうですね。

彼の映画の中で、風は創造と変容のエネルギーです。宮崎監督の描く主人公たちは、空気や風のエネルギーをコントロールする力を持っているか、手に入れていくのですが、宮崎監督はこの風の要素を自由と知性と光に関連づけています。風は複雑なものや闇の力を純化させる可能性を与えてくれ、光と闇の葛藤は垂直方向に起こるのです。ナウシカは優れた風の導き手で、彼女が人々を助けるために自身を犠牲にしようとした時、巨大な蟲(むし)たちが彼女を高みへ押し上げるのですが、そうして、ナウシカは悟りの象徴となるというシーンがあります。また、堀越二郎の場合は、知性と想像力によって、風と空を手中に収めたわけです。

風は力強いエネルギーそのものであり、自然の生きている力なのです。それは、上昇や革命のエネルギーだということもできましょう。「となりのトトロ」では、二人の女の子が蒔いた種から芽が出て上へ上へと伸びて大きく育ちます。トトロは巨大な樹に住んでいるわけですが、樹は垂直方向に発展する上昇のシンボルです。愛らしい太った生き物のトトロも、重さと重力を感じさせないほどです。空気の力は 宮崎監督の現実的なイメージ(二人の女の子が土砂降りの雨の中、傘をさして父親を待っている)を超現実的なイメージ(トトロが捕まえたネコバス)にシフトさせるのにうまく働いています。ネコバスは生きていて、高いところを移動することができるような軽さがあるのです。

「ハウルの動く城」は、重さと複雑さを持ちながら、軽く風のように動く力を描いた見事な例です。もっとも驚かされるのは「天空の城ラピュタ」における宮崎監督のシンボルと詩の使い方でしょう。ほとんどが空の上で起こるシーンで、これは重力に対抗しようとするチャレンジだとも言えましょう。だけれども、重力の法則は消えて無くなることはなく、常に働いているのです。高所に目を眩ませながらも、主人公はそれに屈することはありません。この初期の頃の作品ほどに宮崎監督のイメージが空高く、同時に地中深くに及んだことはありませんでした。地中の岩に含まれる最も硬く最も密度の高い石が、輝き光を放つというシーンに描かれています。これらの石(飛行石)は天空のラピュタ王国に属するものでした。

宮崎監督の創造性や昇華の作用、上昇志向が生む暗喩表現が倫理観を含むような時、彼の詩の才能は完璧に明かされます。ラピュタの城の宝を奪おうとする兵士たちは空から落ち、ラピュタ王国の王や君主になりたがった科学者たちもまた滅ぼされました。このようにして、力に対する欲望や執念は朽ちる宿命で、というのも、それら自体が堕落を意味するものだからです。空に近づこうとする人間の能力を誤って使ってしまえば、当然のことです。「ハウルの動く城」には、王国を略奪しようとする闇のイメージがたくさん出てきますね。ハウルの魂は、光と闇の間で起こる倫理的葛藤の戦場だと言うことができましょう。「風立ちぬ」でも、同様の倫理観を孕むイメージシーンが最後に出てきます。二郎は言います。「零戦は一機も戻ってきませんでした」

ニーチェのごとくに、宮崎駿監督は私たちの精神を昇華させ、空を見つめさせてくれます。彼は人間が超人となりうる可能性を信じていたのです。宮崎監督の風的な視点、科学、魔法、そして詩は決して分け隔ててみることなどできないものなのです。(終)

原文(英文)はコチラ
XAVIERSIMBOLOS 2014年2月号 「風立ちぬ」

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by xavier_astro | 2014-04-02 00:00 | 映画  

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