THE HOLLOW CROWN〜ホロウクラウン(空しき冠)(1)

英語圏外でも文化的かつポピュラーで目立つものとしては、ウィリアム・シェイクスピアが挙げられるでしょう。彼の作品のうち戯曲はそれほど多くありませんが、ロミオとジュリエットハムレットオセロリア王テンペストなどがあります。これらは英国史において名だたる王と戦争について描かれたもので、史劇と呼ばれます。リチャード三世だけが西洋、東洋文化圏どちらにも親しまれた一般的な男な話ではないでしょうか。



私はシェイクスピアを若い頃に一通り読みましたが、リチャード二世という悲劇については深くは理解していませんでした。ヘンリー四世第1部、第2部に出てくるフォルスタッフという陽気な騎士のことを楽しみながら読んだという程度でした。フランス文化を賞賛するようにと常に教育を受けてきて、ヘンリー五世のフランスへの愛国心に至っては、私を非常に窮屈な気分にさせたものです。今になって、ここ3年の間に、私はシェイクスピアの戯曲を全て読み直すこととなりました。詩集のいくつか違う訳のものをKindleに入れて旅先に持って出ますし、学者によって書かれたシェイクスピアのエッセイの主立ったものは入手しています。

そうして、リチャード二世を改めて読んでみることとなり、その深淵を初めて垣間みたのです。彼自身の過失と過ちによって王位を失ったこのリチャード二世の恥じる思いや悔やむ思いを知ることになりました。この戯曲に描かれる歴史的視点の重要なポイントは、不動だった中世の価値観と思想が損なわれる痛ましさや、ルネッサンス期の不安定さとその移り変わりを描いた、というところにありましょう。心理的、哲学的な観点からは、リチャード二世の過ちは、ナルシシズム背後にあるもの、権力欲とアイデンティティの問題について私たちが知ることのできるようその切り口を与えてくれるものです。

リチャード二世は厄介な王であり、その行いも酷いので、私の知る範囲では、リチャード二世についてはまだ映画化されていないはずです。ハリウッド映画は敗者としての王を扱うことを好まないのです。辛うじて、BBC放送でテレビ番組化されたものがあったくらいです。(ひとつはデレク・ジャコビによるもの、もうひとつはイアン・マッケランによるもの)ですが、BBCは、昨年のロンドンオリンピックを記念してシェイクスピア戯曲のミニシリーズを製作しましたが、これはよかったと思います。このプロジェクトの監督を担ったサム・メンデスは、4つの史劇を選びました。リチャード二世(ベン・ウィショーによる好演)、ヘンリー四世第1部・第2部、そしてヘンリー五世です。このミニシリーズのタイトルはリチャード二世のモノローグのフレーズから起用され、“The Hollow Crown”と名付けられました。

このコラムでは、このBBC製作のシェイクスピア劇については、参考に紹介したまでで、ただ、書かれた戯曲の内容について触れたかったのです。日本語にもきっと素晴しい翻訳本が出ているのではないか思います。このコラムに、BBCのテレビ番組のタイトルを選んだまた別の理由というのは、このフレーズには、これら4つの戯曲の真髄を深く理解するためのものが示されていると思ったからです。

シェイクスピアは、彼の詩と同様に、戯曲を通じて、人間の感情表現の全ての領域を探求しています。私たちが経験し見聞きしてきたどんな感情であれ、シェイクスピアの戯曲あるいは登場人物の中に、その感情とその結末が描かれていることが分かります。リチャード二世の物語の中では、登場人物がその人自身のイメージを抱くことができない、あるいはそのイメージを喪失してしまった時、一体どう感じるのか、ということについて書かれています。

王の息子であるリチャード二世は王になるべくして生まれました(1367年1月6日フランスボルドー生まれ)。10歳になった時、彼は王位に就きましたが、彼のアイデンティティは、神の意志により王となった王である、という感覚と完全に結びついていました。シェイクスピアは自身の戯曲の中で、民衆を統治する独自のスキルと能力によって王になる権利を得た人物像という、神の啓示による伝統的しきたりに向き合うこととなりました。(ヘンリー四世ことボリングブロク)けれども、シェイクスピアを魅了しただろうことは、国を統治した人物に対する中世の価値付けからルネッサンス期の認識の仕方への歴史的な移り変わりであっただろうと思うのです。自分の犯した過ちによって、王としてのセルフイメージを喪失した時、自分が本当は何者であるのかを見出そうとしてこの人物が体験した全てのプロセスが描かれています。これこそ、シェイクスピアがドラマティックに掘り下げ、発展させたストーリーなのです。

一般的な言い方をすれば、王になるということは、自分は特別であるという誰しも抱く妄想を象徴しているとも言えるかもしれません。あるいは、人それぞれの限界に直面したり、他者が社会的認知を得るのにずっとずっと才能があり優れているかもしれないという現実に直面せねばならない、ということも表しています。能力を無駄に使ったり、名誉を損なってしまったことに気がついた時、激しい苦しみの瞬間がやってくるのです。その時からもっとも痛みを伴う旅が始まるのです。この旅にはステップがあり、まず第一段階として、自らの過ちを認め、第二に、他者あるいは自分自身に向かい合った時に恥の感覚と不面目を体験し、そして第三段階は、古いアイデンティティ(自分で信じていた自身のイメージ)が崩壊してしまってから後に、真のアイデンティティを求めていくというステップです。

リチャード二世が、従兄弟にあたる人物によって王族法廷で退位させられるというゴタゴタの場面(第4幕)で、彼は王冠を外した自身の顔を鏡に写してみたいと申し出ます。そしてリチャード二世はその鏡を割って粉々にするのですが、権力の印、象徴である王冠を被っていない自分自身を受け容れることができなかったのです。同時に彼は自分自身の本当のアイデンティティを見出さねばならなくなったことをこの時点で理解しました。この物語は、退位させられて、お城の牢獄に閉じ込められた王の、切なくも麗しいモノローグなのです(第5幕第5場面)。このシーンでリチャード二世は、牢獄と世界のイメージを対比させることとなり、いかに彼自身の考え方に固執し、自身を欺いて来たかを知ることになるのです。それから少ししてリチャード二世は殺されてしまうのですが。彼は内省し、王位に就いていた時には見失っていた人間としてのアイデンティティを獲得することができたのです。しかしながら、現実世界の策略からは逃れることはできず、命を落とすこととなりました。(続く)

原文(英語)はコチラ
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by xavier_astro | 2013-09-02 00:00 | 文学  

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