恥と罪と変容 (1)

私はかねてから、世間一般の普遍的真実とされているような考え方を受け容れられずにきました。それは、日本は恥の文化である、とする考えにも当てはまります。日本人の極めて複雑な精神を、恥の概念を通じて説明しようとした「菊と刀」(1947)がアメリカ人文化人類学者によって書かれてから、日の丸文化の真髄を理解するための鍵として、西洋諸国はこの考えを取り入れて来ました。そしてまた、日本人ですら、自分たちの性質を定義する手だてとして、この考えを受け容れている人がいるほど影響力の強い考えなのです。



仮に恥が日本のアイデンティティに関係しているとした場合、西洋諸国は自らを罪の文化であると説明する傾向があります。このような独断的考えは、容易に凝り固まった偏見を生むことになります。アメリカの経験主義者や認知心理学派の中には、ジューン・タングニーが説いているように、恥は非社会的な行動や共感の欠如、自殺の傾向を生むのでよろしくない、とまで断言する人たちもいるのです。タングニーは恥よりも罪の方がまだよいとしています。罪の意識のある人は自分の過ちに気づき、他者に対して償う必要があると感じると言うのです。

どこの文化であれ、どの時代であれ、他者を扱き下ろしつつ、自らの特性や重要性を弁明し正当化することで、自己を確立させようとするのは同じです。罪の意識に行きつくこのおぞましい風潮は、アメリカ社会が最高のものであるというところから来ています。このパラダイム(時代的なひな形となるような考え)は、無意識のうちに日本の名誉や尊厳、信望といった素質を暗に貶めていると言えます。経験主義の心理学派は、罪こそが社会を機能させてゆく最善の方法であり、それに相対する恥を「醜い感情」だと蔑視することで、恥が真のセルフ(自己)を見出し、個人を変容させるための道具であるという重要性を見落としているのです。アメリカ社会がさらに抑圧的な罪の意識を持つようになったのは、テロの脅威への恐れからでしょうか?        

要するに、包括的に掌握することなしに、普遍的な真実は生まれてこないのです。西洋社会、ユダヤ・キリスト教文明の神話のその根っこには恥の概念があって、罪の概念は後から来たものです。アダムとイブは自らに気づいた時、自分たちが裸であることを恥じました。羞恥心は私たちを裸のままさらされているように感じさせるのです。罪の意識はカインが弟であるアベルを殺した時に出てきます。日本人は屈辱を味わうような状況において傷つきやすくなりますが、恥と屈辱は違います。私自身、誰かに罵倒されたり軽視された時には屈辱を感じますが、それは恥かしいと思うのとは別のことです。また社会で何か失敗をおかした時も、ばつが悪いとは思いますが、恥は感じません。恥はより深く暗いものでより深刻なものです。一般的にどこの国のどんな文化でも罪と恥を認識し、それに対処する独自の方法を持っていると言うことです。

最近のシェイクスピアの作品とエリザベス時代の研究から、私はユアン・ファーニー教授の「シェイクスピア作品における恥(仮題)」(原題:"Shame on Shakespeare")という本に行き当たりました。それは恥という主題についての素晴らしい研究で、シェイクスピアの戯曲や登場人物の大きな謎を解くものでした。この人間らしさの最も本質的でありつつ難解な表現である恥という主題から、様々な傾向の本やエッセイ、研究や、学派、分野(社会学、芸術、心理学、哲学)に至るまでの全くの未開の地を切り開いたのです。私はそれまでというもの、心理学的な観点から恥の重要性に何となく気づいているだけでした。

先週、このテーマのワークショップをメキシコで行いましたが、生徒の反応は非常によかったです。この題材は、私が研究し続けて行こうと考えている、注目せずにはいられない主題です。今回はそのワークショップから、いくつか私たちが得た考えや発見を、日本の皆さんたちにシェアしたいと思います。

「恥を弁護するために(仮題)」(原題 "In Defense of Shame")という本において、恥の現象論を書き綴った3人の才能ある哲学者グループの定義から見てみましょう。恥は火を吹くような感覚になりますが、どういう訳か痛みとともに、突然に起きてくる自分を無意味な存在(どうしようもなく自分を小さく感じる)と感じる、というような感覚とつながっています。一方、罪の意識は法に背いたことから来るものであり、行動を評価して規範に従おうとする機能です。フロイトの用語で言えば、罪はイド「自我」(本能の無意識的な表現)とスーパーエゴ「超自我」(権威としての抑圧的な働き)との間の緊張からくるのです。

では次に、恥の性質と働きについての私たち独自の視点を確立して行きましょう。この人間の現象はプラトンからカントに至るまで、何千年もの間研究されてきた主題であり、近代のあらゆる心理学や人類学の理論には、恥の役割と目的についてのそれぞれの考えがあります。この近代のアプローチの共通する誤りは、恥を感情として定義してしまったことです。唯一、哲学者のガブリエル・テイラー(「自尊心、恥と罪」の著者)とユアン・ファーニー教授だけが、恥を感情ではなく知覚として定義しています。罪が自己を評価する感情であることは明らかですが、一方、私たちは、恥については「恥の感覚」としてしか語ることができません。

占星術的に言うと、罪は月に、恥は太陽に関係していると言えるでしょう。私たちは恥を通して、自己(セルフ)の全体的な認識を持ちますが、それは主観的なものです。一方で、罪は常に部分的であり、客観的なものと言えます。言い換えれば、罪悪感を通して、私たちは自分の行動を評価することができ、他者に与える自分の行動や怠慢の影響を知ることができるのです。そうして私たちは受けたダメージを修復することができるわけです。恥においては、私たちは自身の全存在への唐突な知覚を体験することになります。真の恥は決して部分的なものではなく、全体的なものです。恥を知覚であると考えると、恥は直感とも関連していると言えましょう。自分の存在の本質的なところが何かおかしいと感じるのです。(続く)

菊と刀 (講談社学術文庫)

ルース・ベネディクト / 講談社


Shame in Shakespeare (Accents on Shakespeare)

Ewan Fernie / Routledge


In Defense of Shame: The Faces of an Emotion

Julien A. Deonna / Oxford Univ Pr (Txt)


原文(英語)はコチラ
[PR]

by xavier_astro | 2012-08-02 00:00 | 心理  

<< SHAME, GUILT AN... SHAME, GUILT AN... >>