「トウキョウソナタ」〜本当の選択とは何か〜 (1)

数ヶ月間の外国で過ごし、長くて疲れるフライトを三回乗り継いでメキシコに戻った後、時差ボケから回復しようとするものの、東京が恋しくて寝付けない夜が続いたので、香港から持って帰って来た黒沢清監督の最新作「トウキョウソナタ」のDVDを観ることにしました。

現代の日本映画の監督であり、フランスやイギリスの映画評論家から高く評価されている、黒澤さんの芸術性やメッセージ性に、私は魅了されました。「トウキョウソナタ」は家族の物語であり、表向きは、黒沢監督の難解な、ホラーやスリラーとも言える前の作品とは全く違って描かれています。しかしながら、このよくありがちな筋書きは、徐々に、人生における困難や移り変わりのメタファー(喩え話)に変わっていって、この今の時代を通じて、私たち人間が何を目的として生きるのか、示唆を与えてくれています。

「トウキョウソナタ」は、従来の価値観と新しい価値観の狭間でもがき苦しむ家族の成り立ち、がテーマになっています。これは、半世紀以上も前、終戦後の時代に、小津安二郎監督が「東京物語」の中でやったこととよく似ています。この映画で家族は、その時代の社会情勢や経済そして政治的な変動が、個人的な次元にまで衝撃を与える場として描かれています。冥王星が山羊座入りした今、これら全ての領域において、基本構造が変容を遂げてゆく様を、私たちは観ることになるでしょう。



ストーリー自体は比較的シンプルです。高給取りのサラリーマンが突然会社をクビになりますが、そのことを妻と思春期まっさかりの長男と12歳でもうじき中学生になる2人の息子に隠します。何事もなかったフリをして、佐々木竜平(香川照之)は毎朝会社に出かけます。そして彼はようやくショッピングモールの清掃夫の仕事にありつくのですが、ある日自分の妻にバッタリ出くわしてしまいます。妻、恵(小泉今日子)はというと、完璧な主婦として毎日を送りつつも、孤独で、無視され続け、欲求不満だらけの苦悩の日々を送っています。ある日、泥棒(役所広司)が家に押し入り、彼女を誘拐し、悲劇的な出来事の後に彼女は家に戻ります。長男の貴(小柳友)は、アメリカ兵になることを決めて家を去り、次男の健二(井之脇海)は、父親から禁止されていたピアノのレッスンを内緒で受け始めます。

この4人の登場人物を使って、黒澤さんは映画を音楽に融合させた本物のソナタを作曲したのです。それぞれ異なる話を展開させていきます。まず家族一人一人の違った性格を描きました。父親は真面目で厳しく、母親は優しくて過保護気味、長男は家族からかなり孤立しており、次男は才能にあふれた熱い性格です。この4人の登場人物それぞれが、自分たちの人生の様々な局面においてシビアな出来事を経験していくのです。

映画の本筋はクラシックのソナタ形式に沿って4つの話(楽章)が展開します。最初の提示部では仕事を失う父親が登場し、続いて家族それぞれメンバーが登場します。二番目の話はアダージョ的な緩やな展開で、多くのサラリーマンたちが仕事を失った時、家族や社会に対する面目を失うことを恐れるといった、厳しい社会的状況を見せてくれます。三番目の話で、我々が目にするのは、「家族の巣」の崩壊の瞬間であり、それぞれの登場人物が自分自身の厳しい試練を経験し、闇の世界へ入っていく場面です。最後に来るのはこれらの主題の調和なのですが、それはお決まりのハリウッド映画的ハッピーエンドではなく、現実的でありながら、とても詩的に描かれています。

山羊座とその支配星の土星は、権威、責任、名声、功績、支持、構造など、つつがなく生命を維持するために必要なことに関わりがあります。ここ最近の2年くらいの間にお伝えしてきた通り、土星のサイン(山羊座)に入った冥王星は、現実のこれら全ての諸相が変化を遂げつつあることを意味しており、一新できない古い構造や要素はいったん完全に崩壊させなければなりません。私たちはすでに経済危機や、流行病の世界的な蔓延、そしてJALのような大企業の経営破綻、はたまた壊滅的な被害を出したハイチ地震など、数多くの出来事を目の当たりにしてきました。ハイチに関して言えば、国家の極端な貧困と堕落からして、その崩壊は不思議ではありませんでした。しかしながら、痛みと苦難を抱えながらも、ハイチは生まれ変わる機会を得たのです。

「トウキョウソナタ」の出だしでは、権威のイメージは強硬で急進的です。竜平は、会社からの不当な解雇を、抗議することもせず、受入れました。そしてまた彼自身も家では寛容な父親ではなく、二人の息子の要求を断固として跳ね除けます。彼は自分自身が権威によって叩きのめされながらも、家族に何が起こっているのか、理解することができず、健二の芸術への熱望を理解しようともせずに否定し、また、自分の妻の感情的な欲求に対しても、反応することができませんでした。

この映画の監督は権威へ反発しているのではなく、ただ、従来の権力と支配のしくみがどれほど時代遅れの古いもので、自分の周囲の人々の危機や欲求を理解する妨げとなっているかを描いているのです。このことは日本だけではなく世界中で言えることで、と言うのもこの映画の原作者は西洋人のマックス・マニックスであり、黒澤清監督は日本人と外国人の両方を包括した、彼独自の観点からこの脚本を書いたのです。

次号に続く...

原文(英語)はコチラ
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by xavier_astro | 2010-03-02 00:00 | 映画  

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